introduction -始まりと終わり-

ヨリはヒナのことを思い出していた。

『お姉ちゃん』

彼女は血の繋がりは無い筈なのにヨリのことを姉と呼んだ。何がそんなに楽しいのか知らないがよく笑っていた。


「本当にいい子だったのに。まさかあんな事になるなんてねぇ。」
「はい。」

今日何度目かの台詞を聞いて、適当に相槌を打つ。
ここへヒナと二人で越して来たのは最近だったが、今までヨリが目の前に座る婦人と話をしたのはほんの数回、片手でカウントできる程度だ。
騒ぎを聞きつけて来たらしいが、警察は検分もあらかた終えて引き上げ、夜も更けて日付も変わる頃だった。
そこ迄待っていた鬱憤を晴らすように、今さっきまで起こった事を根掘り葉掘り聞いてきた。ヨリの気分などはお構いなし。自分の夫の稼ぎの話や近所の噂もちりばめ立ち話を続けていた。
ヨリにはヒナが何故彼女達を好きだったのか分からなかった。
ヒナから聞けば良い人達だと思っていたのだが、そんなことは無い。
視線の先にある彼女の哀れむような目が、人形の顔にはめ込まれたガラス玉みたいで気味が悪かった。
いや。ガラス玉の方がマシかもしれない。
今ある事実を事実として見るだけのもので、感情など持たない分、客観的で信用がおける。

「そういえばあなた、明日はどうするの?」
「しばらくはここにいます。」
「そう。手伝える事は無い?」
「大丈夫です。有難うございます。」
「気を落とさないようにね。何かあったらいつでも言ってちょうだい。ご近所同士なんだから。」
「有難うございます。」

目の前の少女は当り障りの無いことしか話さない。諦めたらしく、そろそろと身体をドアの方へ向ける。
ヒナの話では彼女は気のいい人らしいが、ヨリはあまり好きではなかった。
ヨリに言わせれば、

『噂好きの主婦』

その一言で片付く人だった。
明日になれば出会う人全てに。自分から聞いたことを多少刺激的に表現して喋るに違いない。他人の不幸は蜜の味とはよく言ったもので、それが他者の存在を喰らっている事に、どれだけの人が気付いているのだろう。
無意識に自分以外の者の不幸を確認し、比較対照する事で己が幸せを確認する。人による精神的な食物連鎖は、動物のそれより残酷だ。
なまじ知恵を持つ存在であることを自覚しているから、考える事や刺激に貪欲なる。
普段は他人に関心を持たないヨリだったが、今日だけはそんな当たり前の事に、無性に腹が立った。

「じゃあね。戸締り気をつけるようにね。」
「はい。」

それでも、不愉快な気分を押し込めて扉を閉めた。
蝋燭の炎がチリチリと音を立てて揺れ、その動きに合わせて部屋の影も小さく揺れた。
寒々とした風が窓枠を小さく揺らす。その向うから繁華街の喧騒が響いている。
メインストリートから少し外れたこの場所は第四区にあたる。
連邦行政の集約された中央府は、区域ごとに数字で振られている。第四区は一般向けに整備された住宅街だったが、ここ数年の移民政策で住人は激変していた。
昔から住んでいる人間もいれば、マフィア、娼婦、住んでいた地域の防護壁が効力を無くしてここに流れてきた難民。人間性は多種多様になっていた。
それもあってか、立ち並ぶ建物の外壁は修理されずにそのままひび割れていて、ライフラインも整備が疎かになっている。お世辞にも住みやすいとは言えない。水の供給がいきなりストップするのも、下水が溢れるのも、ガス管が爆発するのも『よくある事』で片付いていた。
スラム化した原因は色々あるが、移民政策の開放で地価が下落した事が一番の要因らしい。かと言って、そう悪い事ばかりでもない。
アパートの立地条件は程々に良く、少し北に進めば行政機関や軍執行部、そこに所属する公僕達が住む第二区、南に歩を進めれば中央府一の歓楽街ヘヴンズ・ドアのある第六区に行くことができた。

耳に届くのは車の音、遠く中央府を取り囲む壁から響く警笛音。軍と警察が帰るまでこのアパート周辺はごった返していたが、今はいつもの静けさを取り戻していた。
ヨリは窓ガラスに額を当てる。冷たく堅い感触が伝わってきた。
そして、ヒナの父親が姿を消す前に言った言葉を思い出す。


「僕がいなくなってもヒナを守ってくれ。あの子はここで生きるにはとても弱いから...」

中央府に来て何日か経った頃だ。
珍しく泥酔して帰ってきたと思ったら、出迎えたヨリに向かって彼は懇願した。自分より一回りも小さな肩を抱いて、思い詰めた声で訴えた。
何時も何事にも動じずに笑って流す。
彼のそんな姿を見るのは初めてで、自分に何を望むこともなく、無償で守ってくれた彼が好きだった。だから、その願いにヨリはただ頷く事しか出来なかった。
何故自分に頼むのか分からなかったが、ヨリは彼が自分に頼るのはこれが最初で最後になる気がした。
彼とヒナに出会ったのは二年前になる。その時ヨリは銃弾の飛び交う場所に転がっていた。
選ぶことが出来ないのは生まれてくる時だけではなく死ぬ時もそうなのかもしれない。
多分、嬉しくない死に方をそこにいた人間は強制的に選択させられていた。
看取る人間も、悲しむ人間もいない。硝煙の匂いがそこかしこに立ちこめていて、降り積もる雪も灰色に見えた。半分崩れた建物は鉄骨が剥き出しになって様々な方向に曲がっている。
累々と積もる瓦礫と残骸。その中には自分と似たようなものも多く混じっていた。
違うのは、人間だった名残を残すだけで全て壊れていた事だろう。形容は皆似たようなもので赤黒く染まり、欠けたり潰れたりと様々。動く気配は無かった。
冷静に見ている自分も似たような物で、肩には大きな傷がひとつ。
思うように体も動かず、痛みを感じない傷は生暖かな液体を流し続けている。このままこうしていれば目の前の塊の同じものになるのだろうと鈍った頭で認識していた。
そこに倒れる以前の事は思い出せなかった。思い出せないのではなく、覚えていなかったのかもしれない。覚えていたとしても、そんな場所で死にかけているのだから、きっといい思い出では無かったのだろう。人間として当たり前の事も出来ない自分が皮肉に思えた。あの日の自分の顔を見ることができたら、さぞ不気味な顔だろうと思う。死を思い、歪んだ笑みを浮かべる獣が一匹。
壊れる瞬間が来たらしく、ゆっくりと意識が緩慢になっていく。その中で自分に差し伸べられる大きな手が見えた。

次に気が付いたときにはベッドの上だった。
見慣れぬ天井に戸惑い、痛みを伴う体をどうにかずらして視界を変える。傍には少女が座っていた。白い肌に瞳が宝石のように輝いて、瞳と同じ色をした明るい金髪はゆるやかにウェーブを描いて頬に掛かっている。あそこに転がっていたものとは違って、美しかった。それが目を覚ました自分をじっと見つめている。目が合うときょとんとした顔をする。
意識のとぎれる瞬間に見たモノとは余りにかけ離れていて、現実か夢か分からなくなった。
とりあえず目の前の少女に自分は生きているのか聞いた。
質問の意味を理解したのか。彼女は考え込むような仕草をしてから席を離れ、一人の人間を連れてきた。
ひょろりと背の高い男だった。髪はぼさぼさに伸びていて着ているシャツも白衣もどこか薄汚れている。
少女に手を引かれて来たものの、どうも半信半疑だったらしい。目が覚めたことに驚いて呆然としていた。
そして少し潤んだ瞳で嬉しげに自分を見つめ、そっと頬を撫でて笑った。

「生きていて良かったね。」

それが先生とヒナとの出会いだった。

彼らは何も覚えていないヨリを側に置いてくれた。そんな優しい人達を思う。
先生はやたら気遣って色々と世話を焼いてくれたし、ヒナはヒナで年の近い友人が出来たことを喜んで、どこへ行くにもついてきたし、連れて行こうとした。
袖触れ合うも多少の縁。人として当たり前のことなのだろうけれど、たくさんいる中で何故自分だったのか今でも分からなかった。あの時助けて貰ったから今も生きている。
そう思うと感謝してもしきれないのに、ヒナが傍にいると、時々理由の分からぬ理不尽な感情に襲われた。
それはヒナが鏡の前で髪を編んでいた時に。
彼がヒナに笑いかける瞬間に。
周囲の人間が自分という『人間』の存在に気がついて、まるで怪物に対する嫌悪の表情を見せる時に。
そして、それをヒナが庇う度に。
凶暴で粗悪なその感情は、表に出してしまえばあまりに子供じみていた。人間として当たり前の感情なのかもしれない。が、ヨリにはそれがどういう物なのか理解し難く、人というカテゴライズから離れた自分には、分不相応なものにしか思えなかった。それに、その感情に名前を付けてしまえば、自分が本物の怪物に変わってしまうようで怖かった。
なので、それ心の隅にそっと隠していた。
先生は自分のこんな感情に気がついていたのだろうか。どうして自分に娘を任せたのだろう。
聞いてみたくとも、彼が戻らなくなって半年が経っていた。冷静に考えれば生きている可能性より死んでいる可能性の方が高い。
中央塔付近から零時発の貨物便の警笛ランプが光る。
スモッグで黒く染まる街の中を小さな光が点滅していた。何事も無かったかのように。彼らの思い出に浸る自分だけが、世界から遮断されてしまった様だった。振り返っても、部屋には毛布や食器類などの最低限の生活必需品位しか見あたらない。先生がいなくなってから、家具などは生活費の充てに売り払ってしまった。
唯一残る痕跡は、窓辺に置いてある写真立てだけだった。
傷だらけの小さな写真立てには若い頃の先生と小さなヒナが笑っている。くしゃくしゃの黒髪に無邪気な笑顔。その中で少女が幸せそうに笑う。
隣にはヒナとよく似た美しい婦人が寄り添っていた。ヒナの母親だと思うが、きちんと話して貰った事はない。背景に写るのは緑の美しい庭。もうこの庭で、この人達を見ることは出来ない。
気が付くとヨリは窓を開けていた。
街灯の影が大通りから細い路地へと続き、それがその先に続く血痕に見えた。夢であって欲しい事なのに、服に付いた血の匂いで目が覚める。
記憶が正しければ、ついさっきまでヒナは窓から見えるあの細い路地の先で仰向けになって倒れていた。以前に同じようなものをたくさん見た筈だった。なのに未だにヒナがそれらと同じになったと認識できない。
ヒナの体には背中に三箇所、腹に五箇所の刺傷痕、そして左腕の一部分が『何者』かによって喰われていたらしい。
あんな死に方をするために彼女はここにいたのだろうか。
もう少し早く帰っていればこんな事にはならなかったかもしれない。
そう自分を責めてみるものの、何も変わる事は無く、空しさがこみ上げる。先生との約束も守れなかった。泣く事も叫ぶ事も出来ず、ヨリはただ窓辺で立ちすくむ。
こんな死に方をして、最後に彼女は何を思ったのだろう。

『お姉ちゃん』

道路に残っていた血痕が彼女の無言の訴えに思えて、ヨリは窓を閉めた。
彼女がここにいれば、眠らないのは体の毒だと言い、ヨリを寝具代わりのソファーまで引っ張っていった筈だ。
たまには自分から眠ることにしよう。
どうしようもない感情を胸に秘め、ヨリは固く結んでいた髪を解き始める。
ヨリは死んでいったヒナのことを思い出していた。