piece2-1 遭遇

暗闇の中から荒い息遣いが響く。だが、この気配に気付く者はどこにも居ない。全てが光指す窓の外からの罵声、と物々しく走り回る足音で掻き消されていた。窓の外に響く足音への憎らしい感情を抑え、ヨリは剥げかけたリノリウムの床に座り込んだ。

先生が生きているのか
ヒナが死んだことも関係しているのか
何が原因でこうなったのか

当たり前の疑問を抱いた時から、ヨリの選択は決まっていた。
目の前にある事実を素直に受け入れれば、実感の無い事実を受け入れねばならない。
勝手に用意されたそれは、彼女の望む答えでは無かった。そして、善悪の判断も付かない人形紛いの烙印の許諾自体が、本気で拒絶したいものだった。
それから抗う術も、否定する根拠も、事実を覆す為に必要なものも、ヨリは何も持っていなかった。

アパートメントの窓ガラスを叩き割って、飛び出してから早一週間。
持っている物と言えば空になった財布、水の入ったペットボトル、そして先生が大事に保管していた長い筒状の袋ぐらいだった。濃紅の布で、袋の口は紐で固く縛られている。紐は解こうにも複雑に絡んでいて、鋏の刃も負けそうな程に頑丈なものだった。
分厚い布袋に触れば、中に何か持ち手のある筒状のものが入っている事が分かった。しかし、袋の中身については全く知らない。
知っている事といえば、袋の中には昔の患者から預かった貴重品が入っていて、不用意に封を開けたりしてはいけない物だというぐらい。窃盗の多い昨今、金銭的な価値のあるものなら、貸金庫等に預ける。しかし、問題の貴重品はここにあった。
移動する度、厳重に中を見ることの出来ぬ様にして持ち歩き、触れる事の無い様にと注意を受け、訪れる人には判らぬ様に家具の中へ隠していた。
隠し続けるパンドラの箱。これが全ての原因に繋がっているのかもしれない。そう考えて、逃げる時に持ち出した。

逃げ出してまず始めた事は、生きているかもしれない命の恩人を探す事だった。
ヨリが知っていたのは、彼の名前は「スミ」。
それが姓なのか名なのかは分からず。
黄色系と白人系の混血で、背の高い外科医。
豪快に逃げ出した事もあって、ヨリには捜索を依頼する金銭を持っていない。それに、これだけの情報では誰かに頼む事もできない。そんな状況ゆえ、ヨリは頼りない自分の記憶を辿り、行った事のある場所を巡っては、知っていそうな人間に話を聞いて探し続ける。
中身も使い方も分からない目立つ荷物を抱えたど素人の人探し。両方とも警察達から標的にされている。
調査関連の人間が聞けば、まさに愚の骨頂。馬鹿の大行進。
そして暗中模索のヨリが怪しい記憶の場所に向かえば、探し人と関わりがあった人間が殺されている現場と、自分を捕まえようとする人間のみ。
他人には真摯な気持ちで接しなければいけない。思えども、向こうが真摯な気持ちで接してくれない状態をどうすればいいのか。
当たり前に思考は追いつかず、追いかけられる度にヨリは何度も拳を振り上げていた。
既にヨリの脚は悲鳴を挙げはじめ、腕は只の荷物。不躾な他人の掌を振り払う為に動き回って、棒切れのようにぶら下がっている。そして逃げる為に他人を殴る感触が、腕を振り上げれば振り上げるだけ、ヨリの肩に纏わりついていく。肉体の疲労も精神力も限界に近づいていた。
これをいつまで続けるのか。自分一人で探し人は見つかるのか。
願い事なんてただのエゴイズム。望む事全てが叶うなんて無い。
疲労と共に増してゆく絶望に段々と飲み込まれていく。悲しみに取り憑かれまいと、ヨリは微かに震える腕を掴んだ。

「まだ動ける?」

静寂の中に響く声。微かな言葉がヨリの耳に届いた。
警戒して周囲を見渡すがヨリの周りには誰もいない。目の前に見えるものは窓の外の薄い月光と月光も差さぬ暗闇、ヒビの入ったコンクリートの壁ぐらいだった。
自分の感覚がおかしくなったのかとヨリは頬を抓る。普通に痛みを感じて手を離すと、また同じ声が響いてきた。

「動けるみたいだね。」

ゆっくりと静かな言葉が再び聞こえる。
聞き慣れたヒナの可愛らしい声とも、先生の落ち着いた低い声とも違っている。
馴染みのない声だが、穏やかで落ち着く。誰が喋っているのか。誰の声なのか。そんな疑問などお構いなしに声は笑いを含んでヨリに響いた。
「あんたが見たがってるモノにはまだまだ遠いのに。こんなところでくたばったら、話にもならないよ。」
知らぬ声に励まされるというよりも、知らぬ声にヨリの本性が姿を表した。答える代わりに震える腕を壁に叩きつける。鈍い振動が腕を通して伝わり、はらはらと砂埃が舞い散っていく。そんな景気付けのアラームに声はゆっくりと息を吐いた。

「誰なの?どこにいるの?」
「それだけ喋れるなら、まだ大丈夫そうだ。もしあんたが動けなくなったら、あたしがあんたを動かさなくちゃならない。それはあんたが一番嫌な思いをする事になるだろうから、最後まで走り抜いて。」
「誰か分かんない奴に頼るつもりは更々無い。口を開くなら、文句よりも役に立つ事を言って。」
「これ以上は言わない。あんたが何も知らなくても、この暗闇を走り抜ける事が出来たら、どういう事なのか嫌でも分かるよ。」
「......勝手な理屈。」
「勝手な理屈でも、まずはあんたが探している男でも見つけて。そうしたら、あんたに選んでもらうから。」
「何を?」
「私達が残るべきか、消えるべきか。あんたを待ってる現実が、気違い染みて吐き気がする程嫌なものだったとしても、ね。さあ、さっき追いかけてきた奴等がここに近付いているよ。」

それを教えてくれればいい。ヨリは素早く立ち上がり、入口へひた走る。
次に進む場所は分かっているし、声の正体を確かめる暇など無い。それに、自分の進む方向に何が隠れているかなんて見当もつかない。
優しい言葉も、穏やかな愛情も、もう誰も与えてくれる事は無い。



***********************


ヘヴンズ・ドアのほど近く、第六区のシークレット・ガーデンは軒並みブラックマーケットが立ち並んでいる。
ここに集まる商品の殆どは、法的に違法なモノのみ。人身売買、ドラッグ、重火器や刀剣の違法販売と改造。カジノ、スポーツギャンブル何でもござれ。その名を反映する様に咲く花は幅広く、アンダーグラウンドにいる人間には無くてはならぬホームタウンだった。
蜜に誘われて人は集まる。そして、その身に纏う金銭という名の埃を落とし、それを集めようと人が群がってくる。どんな物を売っていても、商売の鉄則は存在していた。それが他人の命であろうとも。
ビルの地下にある円形闘技場では嬌声が響き渡っていた。今日も血の舞台に立つのは、金と権力に自由を奪われた者が殆ど。動物でも、人間でも、命懸けで血を流す生き物がいれば支障はない。
本日の演目はイデア・プログラムで実験体となったウシが数体、イデアを含んだ屈強な闘獣士数人の「闘牛」だった。
脇では次の演目内容の投票券を持つ観客が、場立ちしている予想屋に群がっている。
舞台でも観客でも血で血を洗う狂った宴が繰り広げられていた。普通に見れば、何かが狂っていた。だが、その全てが当たり前に人々に受け入れられていた。狂った場所を作り出した興行主、喜んで舞台に立つ役者、興行を愉しむ観客、ほぼ全員が汚れぬ程度の血と狂乱を望んでいるのだから。
日の目には隠れて見えない秩序が、ここではごく当たり前の常識だった。

そんな歓声に沸く会場の付近でも、似たような破壊音が響いていた。
丁度闘技場の裏手、出入り口のすぐ傍の通路で、コンクリートを打ち抜く衝撃音と空気を切る音が遮る。それを眺める観客はおらずとも、光景はご近所で繰り広げられている舞台の演目と大差は無い。
物音響き渡る辺りには弾倉の無い拳銃、投げ捨てられたナイフ、顎が変形した男、手足が思わぬ方向にねじ曲がった男。円形闘技場と変わらぬものが散乱していた。二人の人間が掃除でもする様に、周りにいる人間を捻り伏せていく。
廊下の向こうで小太りの男は迷っていた。トイレの為に席を外し、戻ってきたら修羅場が巻き起こっていたのだ。仲間はほぼ全員片づけられている。まだ壁の影にいるので、相手には気付かれていない。
選択肢は二つに一つ。戦うか、逃げるか。
逃げれば職を失うし、戦える程に腕っ節が強ければ、こんな組織になど属していない。そんな奴にできる事は上の幹部に報告する位のもの。
だからといって報告するだけだと、上層部からの風当たりがきつくなってしまう。たとえマフィアでも、組織になれば会社と同じ。有事の時には形ばかりの抵抗をしないと格好がつかない。そんな心理状況に誰もが追い込まれていく。
この男も一応拳銃は持っていた。上の幹部から貰った旧式が一丁。しかし、襲って来た二人組のどちらにこれの照準を合わせればいいのか迷っていた。
一人は恐ろしい早さで動いている。かろうじて右頬に不気味な模様が確認できただけだ。黄色系マフィアがしている様な刺青は鮮血と同じ位に紅い色をしていた。その男の右手も同じ位に真っ赤に染まっていた。
イっている奴になど銃口向ける気は更々無かった。目が合う前にやられる自信だけはある。
もう一人は背の高い金髪の男。この男も動きは早かった。ただ、紅い刺青の男よりは照準は合わせ易く見えた。射撃の腕が微妙な自分でも捉えようの無いものじゃない気がして、相手から見えぬ位置に動く。手元がぶれぬ様に深呼吸をして、ゆっくりと銃身を構えた。

「遅ぇよ。判断が。」

何時の間に。構えるのを予測する様に、男の顎と腹をめがけて恐ろしい早さで衝撃が加わる。
胃から突き上げる感覚と、にやりと笑う男の無精髭。それを最後に男の世界は綺麗に暗転していった。
程なくして、そこにも静寂が訪れた。惨劇の後には人影がふたつあるぐらいで、他は先ほどと大差ない。
ジンは唐突な暴力に負けてしまったマフィアの面々を眺めて一息ついた。黄褐色の瞳は感情など映さず、ただ動くモノを認識しているのみだった。服装は普段と変わりない。しかし、頬にまで伸びた刺青は電子回路のラインの様に入り組んでいて、一種異様な雰囲気を醸していた。
戦闘中からずっと握りしめていた手を開く。真っ赤に染まった右手の平には、浅い切り傷が一筋つけられていて、血の代わりに赤々とした刺青のラインが巡っていた。

「休止状態(ハイバーネーション)」

彼の一言で魔法のように刺青が傷痕へ吸い込まれ、掌の傷口が塞がっていった。
傷口が消えるのと同調して、血に染まった真鍮の懐中時計が手品の様に姿を現した。持っていたハンカチで時計に付いた血痕を拭い、ポケットに収めた。
アルトはと言うと、倒れた男達に話しかけている。話すこと自体が手持ちぶさたからくるものだからか。気絶している相手を鬱陶しい位に弄っていた。倒れた面々をクッション代わりに尻に敷いて、よれよれの煙草を吸いながら勝手な考察を並べていく。

「えーっと、お前らはそこの闘技場で試合控えてる奴らの護衛。何の気なしに声を掛けた俺らの事を、商売敵か何かだと思っちゃった。...って、鉄板に横槍入れに来たと思ったのか。アホならアホなりに、もうちょっと脳ミソ使って働けよ。」

その調子で灰皿代わりに煙草を座布団へ押しつけた。薄く漂う紫煙、蛋白質の塊が小さく焦げる音、地味な疵を付けられてしまった座布団のうめき声。アルトはそれら丸々全て無視して、先程の戦闘についてのダメ出しを始めていた。同性相手だと虐め方がえげつない。労いの言葉以上の酷い扱いは、ジンの一言で打ち切られた。

「さっさと行くぞ。ここにも俺達の探し人はいなかった。」
「何だよ。今日は何時にも増して仕事熱心だな。もうちょっとゆっくりしようぜー。」
「そんなに遊びたいなら、ここじゃなく別の場所でやってくれ。」
「別にいいだろ。こいつらは俺達と変わらん位にイカレた馬鹿なんだぞ。」

握手をすると同時に腕を捻って引き上げ、相手の肩を押さえて踏みつけた。友好の証とは思えない妙な音も、それに苦しむ哀れなうめき声も、腕を掴んで声高らかに笑う勝者によってかき消されていた。
ジンはあきれ顔のまま、階段を上った。半地下から階段を上ると、ビルの上に高々と満月が昇っている。ドームの外では風が強いのだろう。ドームの外で舞う砂埃で、月は血の色を思わせる朱に染まっていた。行き交う人々は見上げる事もなく、普通に歩いている。
満月は人を狂わせると言うが、この場所では狂気すらも日常にすり替わっていた。
簡単に人の命が金に変わる。
金の為に自分の命を叩き売る。
それが当たり前。一般的な常識が非常識の代名詞。
そんな場所だから、皆それぞれに生きる目的を求め、自らの欲を充たす為に動いていた。自分の存在を消さぬ様にと、他人の命を喰い続ける。皆同じように、約束事のように。
ここがこの街で深く暗い影の部分でも、此の街で一番人間が持つ動物的な感覚に満ちているのかも知れない。
自然の法則が成り立っているこの場所と、ここにいる人々にジンは何故か愛しさを感じた。

「所詮は人間も獣、か。」

再び見上げた瞬間、満月が歪んでいた。
人の顔もシュールな抽象画の様にぼやけ、意識が混濁する。光も、音も、当たり前に感じていたものが色褪せてしまい、ぼやけた意識の中へ感覚が奪われていく。
夢の中で聞いた馴染みのある声が届いた。

『足を止めて。もうすぐ来る。』

何が。
そう問う前に彼の強制で、視界が切り替えられた。
物の残像がぼやけて、するすると流れていく。ぼやけた町並みには覚えがあった。すぐ傍の改造用パーツの店が並んでいる闇市のど真ん中だ。
周りにいる人間よりも頭半分は下の目線で、世界が動いていく。人目をくぐり抜けていて、誰もこちらを向こうとはしない。
 着ているのはダークグレーの大振りのコートらしい。時折見える黒い袖が視界に残像を残していく。不意に止まる度にグレーがかった薄茶の髪と、うす汚れたシャツを着ている。そして、自分のいるビルが見えた。

「おい。どうした。」

喧嘩好きから掛けられた声で、意識はあっけなく自分の元へ戻されていく。意識を向こう側へ向けなければ、きっと見失ってしまう。

「見つけた。多分、写真の子だと思う。」
「ようやっとおでましか。調教しがいのある別嬪に育ってるか。」
「調教うんぬんは自分で確認しろ。今、彼女のいる方角は俺達から十時方向。」
「で、別嬪はどこにいるんだ。どこに向かってるんだ。」
「ちょっと待て。」
「だからどこだ。さっさと吐け。」

掴みかかってくるのを抑えて、更に感覚を研ぎ澄ませる。この世界を見ている主は、丁度自分たちがいるビルの傍にたどり着いていた。スピードを緩めて周りを確認しながら歩を進めている。
彼女が向かっている出入り口の前には、見覚えのある男が二人立っていた。片方は眼鏡を掛けた男で、もう片方は金髪の男。眼鏡の男は掴み掛かる金髪の男を退けようと必死だった。
あれは、自分か。
意識を自分の元へ戻した瞬間、すぐ傍を黒いニット帽を被った少年がすれ違う。目深に被っているからか、顔立ちまでは判別ができない。
とっさにジンが腕を掴む。鳶色の瞳がこちらを見上げた。
そのまま腕を引き上げて回し、自分の傍に引き込んで関節を押さえる。捕獲完了。

「ここ。」
「あらまぁ。......貰った写真よりも可愛い顔になってる。やっぱり成長期は、子供でも女に化けるもんだな。」

アルトが顔を向けさせようと手を出した瞬間、アルトの横顔に向けて何かが振り上げられた。彼女の持っていた筒状のモノがアルトの手に収まり、更に振り上げていた彼女の腕を取る。アルトは足先を踏み、あっという間に反撃すら出来ない状態にしてしまった。
イデアと言えば元・罪人、そして感情を削られてしまっている人型の傀儡。言われるままに動く便利な駒にしかなれず、壊れるまで飼い殺されていく哀れな存在。

「離して!」
「おお、逃げ続ける欠食児童の割には元気がいい。それなりにオジサンにサービスしてくれたら手は離すけど、どうする?」
「あんたなんかにするサービスなんて知らない。他の人に頼めば。」
「顔だけじゃなく、俺好みのいい根性してる。気に入った。」

言い返し、抵抗する。イデアの概念とは違った雰囲気に、ジンは少しばかり驚いた。そして、抵抗する様を見てにやりと笑んだアルトの顔を見た瞬間、彼のどうしようもない癖を思い出した。
テンションが切り替わって、気持ちが高ぶってる時はしつこい位に絡むのはいつもの事。だが、その臨界点を越えると絡むだけでは飽きたらず、絡んだ相手がぐうの音も出なくなるまで弄り倒す。更に、喧嘩を仕掛けた相手が自分好みの異性だと、絡み方はセクハラになる。
被害に遭った人間は、ジンが知っているだけでも数えきれない。商売で体を売る人間を除けば、彼の暴挙を受け流せた女性はほぼ皆無だった。ホリーホックでよく相手をしているアンジェラに至っては、相当の被害を受けている。
興奮冷めやらぬアルトの暴言に腹を立て、いつもの調子で殴り倒そうとしたら、綺麗に押さえ込まれて言われたくない耳打ちのオンパレード。他にもその場で服を剥れかけることが数回。
最近ではこの凶行が起こるのを予測して、アルトが大興奮のままやってくると分かると、バーカウンターに隠してあるショットガンを持ち出していた。それは他のメンバーの所有物だ。しかし暴発上等とばかりに血走った目で弾倉に弾を詰めているのを、ジンは何度か目撃していた。
気が付けば、アルトは藻掻いている彼女の顎を掴んでいた。明らかに好色の導火線へ火が付いている。咄嗟に出来たのはアルトの顔を遠ざける位だった。
ごん、と鈍い音がして、アルトがつんのめった。彼は明後日の方向を向いたまま、鼻を押さえている。手に鈍い感触が残っていた。

「まさかとは思うが、鼻まで折れてないだろうな。」
「大丈夫...厳しいツッコミありがとよ。でも俺が先だ。ここは譲れん。」
「待て。そっちに怒ってるんじゃない!」
「否定せずとも俺には分かる。誰の札も付けてない別嬪なら、最初に味見するのが常識だ。でも順番は守れ。俺が先!」
「お前の常識が非常識だ!お前の癖に巻き込まれてこれ以上の被害者が増えたら、リリーに申し訳が無いと思わんのか!」
「何だよ。別に減るもんじゃなし。この程度のことでリリーが呪うかっつの。あいつはそこまで肝の小さい女じゃないぞ。」
「それじゃあ、リリーの替わりに俺が呪う。仕事が仕事にならない分、お前の寿命が十年縮まる事を願う!」
「わー。漢の本能を無視した奴がここにいる。ストイックばかりでモテると思ってる勘違い野郎だ!」
「何とでも言え。殴り合いのスキルしか持っていない阿呆でも、まずは彼女の事情を聞く位は考えろ。」
「ああ...確かに。俺とした事がうっかりだ。でも、こいつは犯人じゃないぞ。」
「何を根拠に?」
「俺好みの女に殺人鬼はいない。」

どんな根拠だ。答えの変わりに再度殴ってやろうかと思いきや、向こうは拳銃をジンの眉間向けて構え、意地悪くほくそ笑んでいた。

「二度も同じ手を喰らうか。」

よくよく見れば、ミリタリータイプのパンツに付いたポケットが不自然に膨らんでいた。先程仲良くなった奴等から、仲良くするついでに彼等の懐刀を拝借してきたのだろう。ジャンクショップに転売するつもりだったものが、役に立った事に自慢げになっている。
ジンは額にあたる銃口を手でずらして呟いた。

「...これ、ちゃんと弾入っているのか。」
「勿論。俺と中身の変わらん馬鹿が使ってた代物でも、俺には残りの数を覚えるだけの記憶力がちゃんとあるぞ。」
「それなら、これはお前と同類の阿呆相手に使ってくれ。」
「はぁ?お前一人で、この可愛い子といいコトする気かよ。」
「話を聞くだけだ。お前もここにいればいい。それに、渦中の人物が一人でもいれば、話題の殺人鬼、もしくは野獣がやってくる可能性がある。向こうの方が化物らしく気配を消すのは上手いだろうし、お前以上に競り合いが好きそうだ。人手があるに越した事は無い。」
「来るのか?」
「お前だって同じ匂いのする奴は、向こうが喜ぶご馳走を用意して、涎垂らしてやって来た所を叩き潰すだろ。」
「確かに。」
アルトは格闘が絡んだ勝負にのみ、どこまでも負けず嫌いになる。ジンの一言はアルトの気を逸らす有効な内容だった。
銃の安全装置を外したまま、彼女の腕を離して周りを見渡す。アルトの狂犬じみた殺気に、掴んでいる腕がビクリと震えた。
「大丈夫。まだこの辺りにはいないと思う。分れば教えるから。」
「その言葉に嘘は無いだろうな。」
「無い。もし此処に来たら、お前一人で殺人鬼も化物も楽しんでくれ。向こうが死なない程度にな。」
「気が利くじゃねーか。」

アルトはその場から離れていく。論理立てて考えるよりも直感で動く事を好む彼らしい判断に、少しばかり感謝の気持ちを感じた。今回はトリガーを引く勢いで全てを解決できる程、楽な内容では無さそうだ。それにその勢いで質問されても、答えられる人間とそうでない人間がいる。
眼下で警戒したまま動かない彼女は、どうやら後者の人間の様だ。掴んでいる腕はまだ微かに震えている。小声でジンに囁いた。

「あの人、私には何もしない?」
「ああ。彼奴は頼まれた件にいる化物と喧嘩したいだけ。俺は君から話を聞くだけ。」

そっと腕を放すと、彼女はこちらを見上げた。少年の様な成りをしているが、凛とした面持ちは写真よりもずっと大人びている。気の強そうな面持ちも相俟って、髪と服装を整えれば可愛らしい少女だった。
手の甲にはイデアである証拠の刺青が彫られ、はっきりと実験データのコードナンバーが刻まれていた。
イデアの実験体にされた理由など、情報が散開していて調べようがない。時間を溯れば、殺人犯を実験体にしたのは彼女の年齢が二桁に満たない頃のことになる。犯罪者家族まで実験体にし始めたのは、イデア・プログラム停止の半年前だった。恐らくは家族の誰かが当時政権を仕切っていた軍事与党の反対勢力の人間で、家族揃って投獄されたのだろう。
眺められるのが嫌だったらしく、ジンを睨み付ける目が一段と厳しくなった。
やはり、身形よりも、刺青よりも、ジンが惹きつけられたのは彼女の瞳だった。その瞳に宿る光は、イデアの概念からは明らかにかけ離れている。
ニット帽の下から覗く瞳からは青春を謳歌する年頃の娘でも、思考判断削がれた哀れな傀儡でも、快楽殺人鬼やサイコパスの空虚な暗闇でもない。目の前に起こるもの全てをヒトとしての概念で認識し、理性を持って感情のままに動く「人間」に近い「生物」そのものだ。
彼女が人間としての知性を放棄した目をしていたのなら、犯人像は至極分かりやすいものに変わっただろう。
後腐れ無く切り捨てる事ができる人獣を使いこなすだけの手段があったなら、自分の思いのままに身辺整理ができる。そんな事ができる小賢しい傀儡師など、彼女を引き取っていた行方知れずの医者か、システムの狂い始めたシュラインのどちらかしか思い付かない。そのどちらかの享楽に何人かが巻き添えを食う羽目になり、この街が振り回されてしまった。
ジンが見立てていた大方の予想は、これでほぼ纏まりつつあった。彼女を目の前にするまで、それは変わる事が無かった。
渦中のど真ん中にいる少女は、そんなジンを睨み付けていた。

「考え込まなくても私は何も知らない。とっとと警察にでも引き渡せば?」
「俺達が面倒事を他人に任せる奴だったら、君の話なんて聞きやしない。......とりあえず、君は自分に対する扱い以上に、この事件で納得出来ない事があった。だから逃げた。そしてここにいる。違うか?」

憶測で口を開いたジンにしてみれば、思ったままの言葉だった。しかし、それは彼女の本心を射抜くもので、ジンを見上げる彼女の瞳が微かに揺らぐ。

「初対面で私の何が判るのよ。」
「俺達を見る目付きとアルトをあしらった時。今も物凄い険悪な顔してる。......悪かった。荒っぽく捕まえた上に、あいつが失礼な事を言って。」
「別にいい。馴れてるから、こういうの。」
「追われる事に?」
「うん。だって私が何か知ってると思うから、皆が追いかけてくるんでしょ。じゃなきゃ、どうして私を捕まようとする人がいるの?」
不満げな顔で、隠している刺青の入った手を掲げた。
「それにこの辺りにいる男の人は、コレを見るとベタベタ触ってくる人が多い。腹が立つから、捕まる前に逃げてる。今とそう変わんない。」
「捕まれば殴り倒して?」
「私が嫌だと言っても、誰も助けてくれない。これを隠す手袋も無くしたし。」
「そう...じゃあ今の君に協力している人はいないんだな。」
「そんな人がいてくれたら逃げたりなんてしない。」

ジンの問いに対して、てきぱきと喋る。どうやら自分の意思で動いている。そして闇雲に逃げている訳ではなさそうだった。彼女のなりの推測も的外れなものでは無いし、きっちりと自分の置かれた状況を弁えている。
ただ、自分の力量考えず無茶をするタイプらしい。吐き出した文句へ付け足す様に、彼女の腹が空腹を訴えて鳴り響いた。

「だな、悪い。」

彼女は真っ赤になって俯いた。食べる暇が無かっただけだと呟き始める。その仕草はジンに笑いと多少の平穏をもたらした。
少なくとも、彼女は空腹で人の肉を食らう化け物にはなりそうもない。笑われた事に不機嫌になって外方を向く。ジンは彼女の状況を把握する前に、まず彼女の腹の虫を静めてやらねばと思った。